金鯱歩こう会8月例会「賤ヶ岳小登山ウオーク」に参加の一歩たち 06年8月27日(日曜) 天気 薄曇り  距離 10キロ
コース = JR北陸線・余呉駅スタート  〜 余呉観光会館 〜 山本山 〜賤ヶ岳山頂(昼食) 〜 伊香具神社 〜 木ノ本駅ゴール

8/27(日)は二年前にも瀬戸歩で行ったことのあるコースだったので7時過ぎにマイカーで自宅を出ましたが、名神高速を走らせてこの日のゴールとなるJR北陸線・木ノ本駅に到着まで1時間半ほどのドライブでありました。
そしてミンナが乗って来る電車に乗り込み一駅先の余呉駅で全員下車ですが、お馴染みの顔の中には中山道ウオークコースリーダーの垂井の伊藤さんグループも居られハイ・チーズって朝9時半でしたデス・・・伊藤さんは先週の愛歩の後にも「あれから2日後にまた奈良井の先を歩いて来たヨ」って言っていましたが、中山道が大好きでそして道の様子が気になる日々のようです。


今日の主任案内人は名前を何度聞いてもナゼか記憶に残らなくて黒メガネの小林さんに再確認でしたが大川さんが「主」で「副」は三宅さんがお勤めでした。
その女性の三宅さんのことも会話をしながら「ねえねえ・山本さ〜ん」って平気で喋っていて相手も不思議なく会話に応じてくれていたんだけどママが近寄ってきて「三宅さんよ」って教えてくれました。
最初にキチンと覚えられないと一字違いの別の名前を記憶をしてしまったり、ほかの人と混同したりして「よく人の名前をあんなに覚えられるわね」ってママからも感心されるほどなのに・・・本日ご案内のお二人さま・・・朝から失礼さまでした。
余呉駅を出て直ぐ近くの湖畔にある余呉観光会館で一服をして再スタートですが今から先週に続いて山登りなのだヨーン


余呉湖側から登山道に入り大岩山という山を越えて尾根伝いに多少のアップダウンを繰り返しながら歩を進めていましたが、緑陰の中を琵琶湖方向から涼しい風が吹き上げてくる風の通り道を何度もからだ中に感じながら歩が進みます。
一列にしかなれない馬の背のような道たちでしたので歩き出すとミンナの後姿ばかりの写真たちとなってしまいましたが、ほら背中やリュックで「おっ あの人もご参加だったんだネ」分かりますでしょうかネ〜


登り始めて一時間半ほどでしたが吹き出す汗を上手に風が拭ってくれる木陰の中を歩いていましたが、空がやや明るくなって「天辺に近いのかな?」って言ってたらその先に更に高い頂上が見えてきました。
ママも先週の鳥居峠や8月最初には乗鞍3026mを極めた登山家となっていてこの程度は余裕のよっちゃんの笑顔で先を行っていますが「さあぁ もう直ぐゴハンよ〜」ってパパに声が掛かります。
最後のひとフンバリのジグザグ登りでしたが、上の方では先頭が頂上に登り切ったようで大きな声が聞こえてきました。




オッチラと ヨイトコショが 重なって 九十九折れする 山に笑いが

標高421.9m(この数字はキッチリとです)の「賤ヶ岳」は余呉町と木之本町との間に有って琵琶湖の続きのようにある余呉湖との間をも仕切っている山です。
この山の天辺でお昼休憩となり心地よい風が通る展望台の横でゴハンとなりましたが「北びわこ」って帽子をかぶった方がそばに来られて琵琶湖の歴史なども語ってくれました(地元の語り部ボランティアだそうです)

   その方によると、この山は1583年(天正11年)織田信長の跡目を巡って覇権を争っていた羽柴(豊臣)秀吉と
   柴田勝家が天下人への道を争った決戦地となったそうで「賤ヶ岳の合戦」の舞台だそうです。
   その戦には尾張の武将たちも大勢来ていて「賤ヶ岳の七本槍」に連ねる武者たちのなかには
   名古屋ツーデーなどでも通る福島正則や加藤清正などの名前も出ていました。
   この地は浅井家のゆかりというだけでなく、平安時代に既に干拓をして肥沃な米の産地となっていたために
   国取り合戦の重要な意味も成していたそうです。

   パパは天女伝説というと「静岡の美保の松原」を思い出すけど、朝スタートした余呉町にも「羽衣の柳」という
   木があるそうで、羽衣の松とか柳というものが湖北地方をはじめ日本海側にはいっぱいあるのだそうです。
   きっとそれは「唐の時代の中国など大陸の女性」だったのだと言うことで、大和の国の一般庶民が原始人のような
   格好をしていたころに中国大陸から渡ってきた絹やレースの服を着た女性を見ると正に天女に見えたのだと思います。
   
   今は太平洋側が表で日本海側が裏手って感じで捕らえていますが、神代の時代のころは大陸との交流の全てが
   日本海側に有り「人事交流の表舞台」となっていて歴史が作られていったそうです。

幅広い知識を持つために自分自身もアチコチに足を運んで「推測ではない事実だけを興味をもって聞いてくれる人に」って語り部をされているそうですが、書ききれない色々をお聞きしていて飽きないランチタイムでありました。



   更には話題が広がり、古代の栄えた国の名前で「大和(やまと)の国」とか
   「飛鳥(あすか)の国」と、当たり前に書いたり読んだりしているけど
   なぜ「だいわ」と書いて「やまと」と読むのか
   なぜ「とぶとり」と書いて「あすか」と読むのか
   それは「やまと地方」で大きな国を成した豪族が「更に目指すは全土の大きな和なのじゃ」って言って
   大きな和の国→大和の国じゃ→って字だけが「大和」となり呼び方は元の通りの「やまとのくに」なんだと
   「あすか」も、明日香地方の豪族が一大勢力となって国を仕切るほどのチカラを持つようになり
   最初は「明日香」だったのが「あすかの国は飛ぶ鳥を落とす勢いじゃのう」ってなって
   字もとぶとりの「飛鳥」って書くようになり読み方は「あすか」のままなのだと

歴史の語り部のおじさんのお話はもっと色々有って、花の寿命の短いものは鳥や虫や風などで直ぐに「受粉・交配」がされるから種子が出来て直ぐ枯れるし、蘭の花などは「受粉・交配」が出来にくい「雄しべ雌しべ」の構造なものだから長く花を咲かせているのだそうです。

ウオークから話題がそれましたが、語り部のおじさんの話しをオカズに1時間以上も休憩をした賤ヶ岳山頂から琵琶湖側へと降りて行く我々です。

余呉湖側から山本山というお茶漬けのような名前の山を越え尾根沿いに登った賤ヶ岳山頂へは、途中の休憩を含んで二時間ほどでしたが下りは一気に30分ほどでありました。
一昨年に来た時に「かもしか君」に出合ったことを思い出し山林の奥のアチコチに目をやっていましたが、クネクネに蛇行する道を登山用のリフトの通る下などもくぐって歩いていたら「こんなに早かったっけ?」っていうくらいでサラリと琵琶湖側の麓「大音地区」に下山です。


下山途中でもスピードが落ちず「途中で足を休ませた方が良いのでは」って思うほどでしたが、勝手に止まらぬママの足にとっては具合の良いペースでコースリーダーに引っ張られて下り切った下山後の一服休憩となりました。
先頭が休憩中にも後続の遅れ組がそろそろと下山をして参りますが、下山はそのくらいのペースが一番なのですがネ〜
降りたふもとで一服中のミナサマですが、食後直ぐでもおやつが飛び交う楽しい歩き仲間とのひと時であります・・・さあぁ またまた歩きましょうかネ〜・・・って、この冬は二メートル近い積雪だったという大音地区を歩が進みます。


賤ヶ岳の山頂でも語り部のおじさんが「降りたらこれだけは見ていってヨ」って言われた伊香具神社の大鳥居にもちろん寄らせて頂きましたデス。
ココの鳥居の形は「日本にただココにだけ!」だそうですが、前回のウオークでも「変な形だナ〜」って思って眺めていたその鳥居の形の詳しいお話も山の上で仕入れて参りましたなのだヨーン。

   エッヘン みなさま よう聞かれや
   この辺りは大むかし(平安時代)は伊香一族という豪族が仕切っておって
   北琵琶湖につながるこの地の入り江を伊香小江と呼び目の前は琵琶湖で
   直ぐ後ろには賤ヶ岳を頂上にもつ山じゃったが、これを香具山と呼んでおった地形ぞなもし
   当時は地域の豪族が「神」となってマツリゴト(政)の全てを仕切り一国を統治しておったが
   奥琵琶湖の地の干拓にも成功して、日本でも有数の米作地帯を作り上げたそうな
   その余裕でご先祖様の伊香津臣命って人を祀る神社を作ろう
   「庶民たちよ、おまえ等はコレを崇め讃えるのじゃぞ」ってことになったと
   そして鳥居を作ることになったがその時は米も豊作で有り余る金のチカラにものを言わせ
   前は海じゃし後ろは山じゃ 鳥居も「山の神」と「海の神」をマトメて来いってなもんだな!ガハハハハって
   で、作っちゃったのがこの形なのです。
   山の形を模した「三輪鳥居」と、海に立つ為に倒れないように補助柱を加えた「両部鳥居」を合体して
   世界に一つだけの「伊香式鳥居」って名前も付けたのじゃ ワハハハハ


以前に見た時はコンクリート製となっている為か「ナンカ電信柱の古いのをかき集めてを無造作に組み上げたようだな〜」って思っていましたが、お話しに聞いて説明を受けると「なるほどネ〜」ってなります。
歩くことが楽しくて気が付くといっぱいのお友だちや仲間が出来もして、色々なお勉強も出来てしまう・・・歩く事による副産物がいっぱいの本日は歴史に触れたウオークで木ノ本駅まで戻って解散となり、パパママは駅の手前に停めておいたマイカーでスイスイで午後4時過ぎには我が家でご入浴と相成った一日でした。
ではでは コレにてチョーン






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