恵那市岩村町「みこし御渡行列」竹並神社から八幡神社への一歩たち 07年10月6日(土曜) 天気 晴れ 距離 4キロ?
コース = 竹並神社前スタート 〜 岩村町内 〜 木村邸(昼食) 〜 八幡神社ゴール

三連休の真っただ中で各地で開催のウオーク大会のようですが、萌生ちゃんのジジババを解放されたパパママも出掛けた10/6(土)で、カッパの堀さんのお誘いも有ったし我々も何度も「行きたい!」って実際に出掛けたけど雨で行列が中止になった年も有ったりした岩村の「みこし御渡行列」を初めて直接目にすることが出来ました。

朝9時には行列が動き出すとのカッパさん情報にマイカーで向う岩村で勝手知ったる岩村公民館に8時半に到着ですが、館内では行列に参加の為に祭り衣装に着替えをする中学生などで賑わっていました。
懐かしい街並みの一斉語録に目をやりながら岩村に来たら絶対に食べなくちゃイケナイ「かんからや」の「かんから餅」ですが、向う向こうから三河万歳の歳三のようなえびす顔のカッパの堀さんと遭遇で、先ずは腹ごしらえのパパママです。

                             
「青天白日は 常に我に在り    佐藤一斉」

日々を過ごす中で「今日はつまらなかった」とか「面白くない」などとボヤく人が居るけれど、心の中に曇をかけたり雨を降らすのはあなたの周りに理由が有るのではなく、全てあなた自身の心の有りようによるんですヨ!・・・って一斉さんが教えてくれます。




ただこの町のこの通りを歩くだけで来て良かったと思える岩村ですが、本日は更に特別な一日で
可愛い子どもたちも特別な笑顔デス。


岩村の秋祭りと言われるこの大祭は「八幡神社」「竹並神社双方が一体となった祭事で、岩村城を創築した加藤景廉(かげかど)公が祭神として祀られている八幡神社に、武並神社の祭神として祀られているその子供の遠山景朝(かげとも)公を父君の元へと案内をするという古事がこのお祭りの由来となっているとの事です。

八幡神社の加藤景廉公が「岩村城鎮守の神」として武士の神様であるのに対して、息子・遠山景朝公は「町民の氏神」として民衆の神様としてそれぞれ祀られてきたとの事で、岩村秋祭りの「みこし渡御行列」は年に一度の親子ご対面で、景朝公の御霊が農民や町人の手によって神輿に乗せられ、行列を組んで武並神社を出発するというものです。
朝9時15分 町の西外れにある竹並神社奥殿から神官たちの手によってご出座された御霊を乗せた神輿が御渡行列の待つ大鳥居前に下りて参りました。


ワタクシの目線と耳線(耳栓ではナイ)と感性が織り成す我がレポートですが、この衣装たちは全て竹並神社が管理しているそうで、しかも主要な役を除いて行列のどの役目を受け持つのかを各町内毎にくじ引きで決め、更に町内に持ち帰って「どの家のだれそれがこの役を」って、更にくじ引きだという偶然の平等が原則だそうです。
カッパの堀さんも自宅で装束に着替えて竹並神社に向われましたが、前の日に役に沿った衣装を借りに行き当日を迎えるそうで、以前は大人たちでまかなえた行列も今は中学生にも協力を得ているとのことです。

さてさて そのみこし御渡行列ですが事前に堀さんから聞いていたのでオレ自身は違和感がアリマセンが、知らぬ皆さまが驚かれたり不思議に思うように岐阜の片田舎の村祭りに「ここは京の都かい」と勘違いをしそうな荘厳で雅な時代絵巻が繰り広げられるこの様相は素晴らしいのひと言なのです。




前が詰まって分かり難いですがこれが一番先頭の方で「先達」といい、その後には四人の「行列奉行」が並ぶのですが
彼らは行列全体を仕切る為に竹並神社出立と共に直ぐに列を離れて後へ前へと駆け回っています。

更に竹箒を持った「掃除役」、裃を着けた「露払い」、道中の清め役の「塩水」はえんとうと呼ぶそうです。
そして「根付榊」(ねつきさかき)と続きますが
竹並神社の境内から掘ってきたというツバキ科の「榊」は
神様の領域と人間世界の「境」を示す木だそうで「栄木」や「賢木」とも重なってついた木の名前だそうです。




天上の神様を地上に案内をしたという「猿田彦旗」がつづき




「獅子頭」の後には「打囃子衆」が続きますが、まだまだホンの先頭部分です。




笛・太鼓の「打囃子・入若連」の後には「花馬」「花車」「御神馬」を曳くチビっ子たちで
それを囲むように我が子の勇姿を記念にと
一際賑わう大人たちがカメラやビデオを構えていましたが、代々と次代を担う子供たちが受け持っているそうです。



過っては本物の馬が使われていた行列も今は張子の駒だそうですが
曳くこの子たちにとっても
歴史の一ページに参加の今日のことは忘れられない日だと思います。



更には平安朝期の衣裳、直衣、烏帽子を着用した楽怜人(がくれいじん)と呼ばれる「雅楽衆」が続きます。



この中にはカッパの堀さんのお嬢さんも居て
耳に心地よい(しょう)や篳篥(ひちりき)横笛太鼓の音が御渡行列に雅の空気と重厚さを加えてくれます。



その後には景朝公の御霊を乗せた「お神輿」が続きますが
沿道の方々はお賽銭を神輿係といわれる三方を持った方に差し出して礼をされておられました。




カッパの堀さんは最後尾をご担当でしたが、先頭の「先達」から堀さんまで76の役が有り



、打囃子や雅楽など大人数で編成の組も有り総勢300名を越える行列となっているそうです。

岩村の街並みは東西に長く行列がスタートした西外れの竹並神社側が一番低くて、東に進むにつれて緩やかな登り道となっていてその先は山城である岩村城へと続いています。
「私のカメラで撮って欲しい」との堀さんの要望にママは堀さんカメラで撮影でしたが、ワタクシも初めて目にする岩村の秋祭りに前に後へとシャッターを押し続け気が付いたら容量オーバーとなるほどの枚数があっという間の状況でした。


岩村城を築城した加藤景廉(かげかど)という人は鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝(よりとも)の剛勇な重臣で、配職により文治元年(1185)に美濃遠山と呼ばれた岩村の地頭になったとの説明ですが、岩村をはじめとして8つの地域の地頭職を兼ねるほどの大武将だったそうで、伊豆に居を置き実際に岩村には住むということが無かったそうです。
そしてその息子が美濃遠山の地名を取り遠山景朝(かげとも)として二代目岩村城主となったそうですが、父景廉が卒した1221(承久3年)には家臣の総意で岩村城内北部の八幡曲輪の地に祀られ、明治維新による廃城のために現在の地に遷宮されたのだとのことです。

その後の景朝も家臣や領民の崇拝を得て竹並神社に祀られるようになりこの「みこし御渡行列」が始まったそうですが「景朝の御霊を父の元へと連れて行こう」とはなんとステキな領民であり家臣たちだったのでしょうか!
午前11時前に木村邸で昼食休憩となりましたが、昔は領民が城内に入ることが出来ず竹並神社から領主木村邸までを民衆が運び、ここから城代家臣たちが神輿を奉持して城内を登り八幡神社へ進んだとの事です。

ママと右大臣・左大臣が並んで写っていますが、聞くと本日のお祭りの為に伊豆・修善寺の地から来られた神官の方々だそうで、きっと父景廉居住の地が所以となって景朝の御霊を竹並神社の社殿から神輿にお移り頂く際の神事を仕切られる方々なのだと思います。

それぞれに昼食のようで我々はカッパの堀さんうどんのみつばに行きましたが、喫茶店でコーヒーだったり自宅へ帰って食べて来たという堀さんのお隣の家の方や皆なも戻ってきて行列を整えて動き出す午後です。




朝出た竹並神社から進む町の全ての家に献灯の提灯がさがり、屋根には松と半紙の飾りが並びます。

カッパの堀さんのご縁で過ごすお祭りですが、午後も木村邸から残り半分を進みチビっ子たちは町外れの手前で「花馬」や「花車」や「御神馬」を小屋に入れ、ご褒美をもらって解散となり、その後は村外れから国道沿いのわき道を山手に進み、景朝の御霊を父景廉の八幡神社へ送り届けて一泊をさせるこの後です。
社殿ではその後も八幡神社の長い神事が執り行なわれるとの事で、十分に楽しませて頂いた堀さんにお礼を言って帰路についたパパママです。
ではでは ネ〜




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